追悼 3  「鈴韻集」から
複写印画紙の事など 大山 泰
 幸運にも先生に直々師事出来た数多くない弟子達の最後の一人としてここに拙い一文を以て先生の思い出と追悼の美しい詩集の様な本書の一頁を汚す事を許されたのは非常にうれしいことである。
 私が先生の所に入ったのは先生逝去の前年4月であったから文字通り先生に手を取って指導して頂いたのは僅かに10ヶ月にも満たない短期間であった。<中略>
 小生の受けた最も強い印象は、日常にも、研究用にも備忘録の様なものを用いられる事なく「ノートに書くから忘れるのだ」と言われる先生の驚くべき記憶力と写真、金属、製薬等、有機、無機の別無く何でも御座れで、頼まれれば応じ、ヒントが浮かべば実験台に向われる。仕事に対する全く無造作な対応力であり、又研究に対するひたむきな情熱であった。暑い最中に寝ずに実験されたり、たまった汗を拭われもせず、大きな体で活発に実験室で左右される光景など未だにはっきりと眼にうかぶのである。<中略>
 工業写真にも目を着けておられた先生は、支那事変は次第に深刻な世界戦争へと進みつつあったとはいえ、まだ物資も比較的潤沢に、写真も自由経済華やかな時代の最後を飾るに相応しく天然色写真を始め、広告用、宣伝用、或いはアマチュア用等どちらかと言えば娯楽めいたものを中心に進みつつあった時代にも拘わらず、既に工業用写真の重要性を認識され、ドキュメント・ペーパー(文献複写用印画紙)の研究に進まれる一面、戦時下にはフィルムの欠乏を予期されて、セルロイド・ベースによらない透明フィルムの製作、或いは印画紙の透明化への熱情を持っておられたのであった。亡くなられる3ヶ月くらい前には外国製の最新ドキュメント・ペーパーを小生もお手伝いして調査研究したものだが先生の没後京都写真工業会社から売り出された複写印画紙となったのであって、文献複写用は勿論、工業用図面の複製に対しても多大な実用性を発揮し、時局の要請に先んじて工業写真の普及がもたらされた。この刺激に目覚めた各写真工業会社も現有する化学工業力を動員して外国製品に劣らない立派な製品が市場に出回るようになったが外国製品模倣の域を脱し切れないとは言いながらも、先んじてここに着目された先生の卓見に感服の外ない。<以下略>
「養 士 十 年」 尾間 一彦 
 新年のある日、先生が例の温顔を湛え心持頭を曲げて研究室に入って来られた。そして示された小さい紙片である。風雅の道に暗い私にはそれが印譜であることだけは判っても、何と読んだら良いのか皆目判らず、赤面の内に沈黙してしまった。先生は私等の無風流を怒られもせず、徐に文曰く<イワク>養士十年」と教えられた。承ればその篆刻は先生ご自身の趣味の所産であり、形を成すまでには一杯陶然、想いを練る事幾度か、そのご苦心、楽しみそして一気呵成に刻まれる気力などを極めて興味深く語り、且つ教えられるのであった。
 後年、先生がある会合で文壇の老大家操觚界<ソウコカイ=新聞・雑誌の評論家の社会>の大先輩と同席された事があった。談偶々<タマタマ>篆刻のことに及ぶやその老大家は趣味の印譜について熱心にその薀蓄<ウンチク>を傾けられたのに対し、先生は恬然<テンゼン=安らかな様>として「印譜の妙味はその拡がりにありますよね、良いものはじーと見つめているとその文字が浮かび上がって来て印一杯に満ち、紙上に溢れる様に感じられますよ」と申されたのを記憶している。「養士十年」理研に於ける先生のお仕事は確かに「養士」にあった。大正12年の震災の年から昭和16年まで、−−それは私等にとって何と心残り多い事であろう−−化学界の泰斗<タイト=泰山や北斗の様に=世人から最も仰ぎ尊ばれている権威者>として有機化学に、無機化学に重化学工業、写真化学にその教えを受けた人々の数の何と多いことか、日本化学会、燃料協会、工業化学会、鉄鋼協会、新設の電気化学協会、写真学会に先生の温顔は大抵の時見られた。どんな問題に遭遇してもどんな講演を聞かれても適切に解説され、数行して我々へ教えられた。しばしば「この頃の若い者は化学を有機と無機に豁然と区分して、互いを知らない事を得意にしている様に見受けられる。そんな事で化学が解るものか」とよく叱られたものである。

 昭和の初頭、毎日正午になると研究員が一室に集まって来る。先生を中心に昼食を共にし、四方山話に華が咲き、学界、業界、政治、軍事、社会百般に亘り話題は転々とする。先生はいつも慈願を以て聴いておられ、後で批評や御自分の考えを述べられた。この昼食会談から種々の着想、考案が生まれ、研究に進展し、論文に、発明に、特許にまで結実させたものに枚挙にいとまがない。何事にたいしても一家言<イッカゲン=その人独自の意見>を持ち、若輩の私共がいつも驚異の耳をそばだてたものである。その昼食会の延長から博士が5人以上輩出し、会社の技師長、重役の要職に就いて業界に重きをなす人が6・7人にも及び、又現に脂の乗り切った働き盛りで八面六臂<ハチメンロッピ=多方面で活躍する人>の活躍を続けている連中も五指に余る程である。「養士十年」先生の足跡は誠に大きい。そしてその先生を仰ぐ時自己の稚<イトケナイ>小にただ慚愧<ザンキ=恥じ入ること>忸怩<ジクジ=恥じ入るさま>たるのみである。
 因みにこの「養士十年」の印譜はその年の「化学工業時報」の誌面を飾ったものの様に記憶している。
一ミリと百万トン 笠井 康
 大正15年春、私は理研に於いて先生のご指導を受ける事になった。最初の日、ご注意の中に次の様な事があった。それは「仕事の目的に向っては学校の経歴を顧みるな」と言うのである。そうして「無機化学を専修した者も必要とあれば有機質の硝子を作れ」と言う例を挙げられた。又折に触れて言われた事に「一ミリグラムを取り扱う者は克<コク=よくする事>百万トンを識るべし」と言うのがある。これは取り扱われる一ミリグラムの意義を充分に弁<ワキマ>えるようにと言う意味である。先生の事を書けば真に限りがないが、この二例は今日、特に味わいたい次第である。
ウルトラジンの思い出 櫻井 季雄
 我国の写真科学の発達は極めて近年で、今から考えると嘘のようであるが、大正12、3年頃にはオルソ、パンクロ等の輸入の乾板はあったが、国産の写真乾板は全く無かった。当時は今日程アマチュア写真家も無く、特殊な乾板として学者が学術用に使う程度のものであった。
 従って写真用フルターも全く必要が無かった。こんな時代に義兄鈴木庸生博士は、一つ国産の写真用フルターを作ろうと筆者に相談された。当時筆者は真島理行博士研究室で感光性色素の研究をしていたので、写真用フルターとは密接な関係があり、写真に関する問題についてはしばしば義兄に教えを乞う立場にいた関係上この研究に就いて大いに協力を誓った。
 先ず、写真用フルターの重要な使命は紫外線を吸収する事である。昔から紫外線を吸収する物質として知られているものは、エスクリン、キニーネ等があるけれども何れも天然物で未だ合成は出来ない。フルター用色素としてドイツにフィルターゲルブ、米国にイーストマンエローがあるけれども未だ完全のものでは無い。色々文献を調べて合成をして吸収スペクトルを測定して見た所、パラジメチルアミノベタメチルクマリンやフエニールグルコサゾン等はよく紫外線を吸収する事を知った。
 しかしこれ等は何れも水に不溶性で目的によっては非常に不便である。ナフトールスルフォン酸塩類は水に良く溶けて紫外線の一部を吸収するけれども不完全である。結局パラジメチルアミノベタメチルクマリンとかフエニールグルコサゾンの何れかを水に可溶性にする事が一番早道なのでこの研究を進めたが、前者を可溶性とする事は一寸考えられないので後者の誘導体を可溶性にする事が比較的容易でありしかも優秀な結果を得たのでこの物質に「ウルトラジン」と命名して連名で特許を出願した。ウルトラジンは水に良く溶解し、微量で紫外線並びに極紫光線を完全に吸収するのでこの一定量をゼラチンに溶かしてフィルムを作りこれを二枚のレンズの間に張合わせれば優秀な写真用フィルターが出来る。理化学研究所では研究が完成して工業化の中間試験として製造部と言うものが設けられている。この製造部は研究室から離れて全く独立したもので自己の製品の収入に依って自給自足をしなければならないのである。

 所が大正13年に「ウルトラジン製造部」と言うものが設けられ、設備は出来て工員を採用し、早速ウルトラジンフィルターの製造を始めた。製品はどんどん出来るけれども、さっぱり売れない。売れないのは当然で当時は相当の写真家と自他共に許している連中でさえフィルターの必要はほとんど無かった。
 そのような訳で当時は随分赤字に悩んだものであるけれども、我々は我国最初の国産フィルターとしての誇りを持って自らを慰めていた。そして大正15年には帝国発明協会から進歩賞を、又昭和4年には優秀賞と言うご褒美に授かった。その内に感光性色素の研究も進捗し、国産の整色、汎色、赤外線等の写真乾板も製造される様になったので雑誌に、講演に、フィルターの知識の普及に務めたものである。その効果の程は知らないが、有名無名の写真家が段々フィルターを認識する様になって遂に製造が間に合わなくなった程である。所が大量生産を始めて又新たな悩みに直面した。
 フィルターの原料はゼラチンで、夏の室温が30度もあるとゼラチンは殆ど硬化しない、つまり製品が出来ない。少量の場合には何等の支障を感じなかったけれども大量生産になると色々のコンディションが変わって来る。やむなく工場の一遇に公衆電話の箱の様なものを数個作ってこの中に多量の氷を入れたり、ドライアイスを入れてゼラチン作業はこの箱の中でやった事もあった。その内に「ウルトラジン製造部」が「ウルトラジン光業所」と言う独立した小さな株式会社になって工場を川崎市の海岸通りの田んぼの中に新築した。閑静で空気も清く喜んで仕事を始めた。それに今度は夏の作業に懲りたので一室だけ完全な冷房装置を完備したのでゼラチンの硬化には少しも困らなかった。しかし、又新たな悩みにぶつかった。工場から数百メートル隔てた海岸近くに、某セメント工場があった。夏になると風向きが変わり海の方から吹いて来る。その時製造したフィルターをルーペや顕微鏡で調べて見るとゼラチン膜に細かい塵が付いていて全く商品にならない。良く検査するとセメントの粉末である。早速、工場の窓を二重にして隙間に羅紗を張るやら紙で目張りをするやら応急の処置をした所がセメントの粉というものはそんな仕掛けにはお構いなしにどんどん室内に飛び込んで来るのでそれには随分悩まされたものである。
 そんな事で数年前に、再び工場を東京に移して現在は又一段昇格して「理研光器株式会社」と名称も改まり、冬でも夏でも何の支障も無く順調に作業を続けている。
 この事業程、売れなくて悩み、大量生産で悩み、セメントで悩み、随分永い間悩まされた事はなかったけれども義兄を偲ぶ思い出の一つである。  

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